これからは、のびのび生きよう!

「他人が自分をどう思うか」より「自分が自分をどう思うか」の方が大事。これからは、もっとのびのび生きていきましょう!

自分との約束

私は様々な神経症に悩んでいる。

自分の視線の置き場に悩んでしまう「自己視線恐怖症」、視線を向けてはいけないと意識するほど、そちらに視線がいってしまう「脇見恐怖症」、人前で字を書く時手が震えてしまう「書痙」、人前で汗が異常に出てしまう「多汗症」、人前で話す時、緊張してしまう「あがり症」、周囲に人がいると電話でうまく話せない「電話恐怖症」、人と一緒に食事ができない「会食恐怖症」・・・等々、まるで神経症のデパートだ。

神経症の人って多くの人がそうだと思うのだが、試験や面接など何か人生のイベントがある時、その事よりも神経症の症状のことばかり気にしてしまい、そのことに取り組むというより、神経症の症状を出さずになんとか無事切り抜けることばかり考えてしまう。

例えば、映画を見に行くとする。そうすると映画を楽しむというより、映画の間トイレに行きたくならないといいなとか、お腹が鳴らないといいなとか、一緒に行った人に変な人だと思われないといいなとか、恥をかかずに無事終わるといいなとか、そのようなことばかり考えてしまう。とても映画を楽しむどころではない。

学校のテストでも、いい点を目指すというより、テスト中お腹が痛くならないといいなとか変な視線をしてカンニングしてると勘違いされないといいなとか、そのようなことばかり考えてしまう。要はいつでもどこでも、神経症のことばかり考えてしまい、その事に集中することができなくなってしまう。

今までの人生を振り返ってみると、そんな状況の中で、数々のイベントを乗り越え、よくまあ今までやってきたなと我ながら思う。そして、神経症の症状さえなければ、自分はもっと能力を発揮できて、もっと積極的に人と関わることができて、恋愛なども楽しむことができたのではないかと思ったりする。この症状さえなければ、もっと主体的に人生を生きることができたのに、と思う。だけど、その考えは間違いだ。神経症の症状は関係ない。要は神経症の症状ばかり考えてしまう自分の気持ちが問題だと思う。

私は今まで、神経症の症状ばかりを気にして、それを治すことばかり考えていた。人前で汗をかかないようにとか、声が震えないようにとか、変な視線をしないようにとか・・・。でもそれは無理な話だ。過去の記事でも書いたように、感情は水面にできた波のようなもので、無理に消そうとすると、逆に水面の波が大きくなってしまう。それよりもその波をただ黙って受け入れれば、時間の経過とともにその波はおさまっていく。そして、大切なのはその後だ。症状が出たのを気にしないこと。汗をかいてしまった、声が震えてしまった・・・と落ち込まないこと。神経症を治すって、汗をかかないようにするとか声が震えないようにするということではなくて、相変わらず人前では汗をかくけど気にしなくなる、人前で話すと声が震えるけど気にしなくなる、ことだと思う。

 

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あがり症で悩んでいる私は、あがりさえしなければ本来の実力を発揮できて、もっと積極的に人生を楽しむことができるのにと思っていた。でも、それは間違った考え方だ。別にあがり症でも積極的に行動して人生を楽しめばいい。あがらないようになることを目指すのではなく、あがるけど、まあしょうがないかとあがることを気にしなくなるのが、本来目指さなければならないゴールだ。「あがり症」でいい。でもあがりを恐れる「あがり恐怖症」はダメだ。「多汗症」でいい。でも汗をかくことを恐れる「多汗恐怖症」はダメだ。

人前で声が震えてしまう、汗をかいてしまう、視線がおかしくなってしまう、別にいいじゃないか。それで相手の人から嫌われたらしょうがない。そんな自分を受け入れてくれる人を大事にすればいい。そもそもみんなから好かれることなんて無理なのだから。

仮に自分はどうだろう? 声が震えている人、汗をかいている人を見たら、「なんだこの人は」とその人のことを嫌うだろうか? 私は、自分がそうだから、逆にそのような人を見ると、この人はきっと真面目な人なんだろうなと思い好感が持てる。仲良くなりたいと思う。そう、だから、無理に症状を治そうとする必要はない。逆に無理して症状を治したら、「無理して普通にしようとしている自分」を求める人が寄ってきてどんどん辛くなってしまう。それよりもありのままの自分を好きになってくれる人と仲良くした方が全然楽だし人生楽しいはずだ。

とにかく、症状を治そうとしない。治すのは無理。症状が出ても気にしなくなること。症状が出る自分を好きになること。恐怖に感じなきゃ恐怖症は治るということだ。残りの人生は少ない。自分らしく、これからは、のびのび生きよう! 約束したよ。